考えてみたこと

月かげのいたらぬさとはねけれども

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法然上人の言葉。
本来は阿弥陀没仏の本願は
すべての生き物にあまねく照らされる
という意味であるが

これを人の本性の
「人は分かち合っていかなければいきていけない」
にも当てはめることができるように思う。

分かち合いから切り離されて
生きていくことはできない。

人が一人で生きていけるように思えてしまうのは
分かち合いを
物として結晶化した貨幣を使うことで
代わりをさせているからだ。
「金の切れ目が縁の切れ目」
貨幣で賄うことができる様々の他の人々との関係とは
貨幣で生活に必要なものを買ったり、サービスを受けたりすること。
これらは生活に不可欠なものです。
ですから貨幣がなくなれば、現代の社会では、ほとんどの事が享受できなくなる。
(基本的人権に保障されている「必要最低限のもの」は別)
この物象化については別に機会に

さて話を法然上人の言葉に戻します。
後半には
「ながむるひとのこころにぞすむ」
とある。

この一節の意味は、私なりの解釈では
この様な人間の本性は
そのことに気づいた人の心のなかにはあるということ

では、このことが現代どのようになっているのか?
それを何をどうしていけばいいのか?

これも長くなったので次の機会に

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